新生代の音響演出の幕開け
Martin Audio Sound Adventures

Martin Audio Japan ⼭下修 2018.12.24

既にいくつかのメーカーから発売されているイマーシブ演出用のソリューションに追従する形で、英国Martin Audioが今年発表したのがSound Adventuresシステムである。これまで定評のあったMartin Audioのスピーカー、パワーアンプに加え、オランダAstro Spatial Audio社のSARAⅡプロセッサーとのコンビネーションで生まれる、このアプローチによって、いくつもの新しい音響演出が実現できる。その詳細をご紹介していきたいと思う。

Astro Spatial Audio

Sound Adventuresの根幹になるのがAstro Spatial AudioのSARAⅡプレミアムレンダリングエンジンである。もともとAstro Spatial Audioは設立2年足らずの新進気鋭のブランド。しかしドイツ、フラウンホーファーのWFS(ウェーブフィールドシンセシス)の技術を応用したその空間定位プロセッシング技術は、世界トップレベルのものだ。フラウンホーファー研究機構(独: Fraunhofer-Gesellschaft)は、ドイツ全土に72の研究所・研究ユニットを持つ欧州最大の応用研究機関。実はMP3もフラウンホーファーの別部門で研究開発された。このフラウンホーファーで20年前から研究されてきた立体音響の音響物理学的、および音響心理学的な手法が製品に活かされている。
WFSの基本は、無数に設置された各スピーカーのボリュームやディレイをマトリクス的に組み替えることで、あたかも自然界に存在するような定位を作り出そうとするもの。実際、ドイツの研究機関では数百個のスピーカーが一面に設置されたスピーカーウォールや、水平方向360度にびっしりスピーカーを設置したスタジオなどが存在する。
理論的にはスピーカー間の距離を0㎝で密集設置すれば、何もない中空の空間に定位を作り出すことが可能というWFSであるが、実際の演出空間でそのようなスピーカー設置の実現は難しい。そこでAstro Spatial Audioではこれを応用しつつ、独自の発想でスピーカー間の距離がほどほどに離れていても、ある程度の効果を期待できるというソリューションに落とし込んだ。これを前述の本家のWFSと区別して、彼らはアダプテッドWFSを呼んでいる。

オブジェクトベースの信号処理

このアダプテッドWFSのメリットは、スピーカー配置に対する自由度があるオブジェクトベースのアプローチだということだ。これまで映画や放送コンテンツで主流だったチャンネルベースとは異なり、オブジェクトベースの手法ではライブエンターテイメントへの応用が大いに期待できる。
チャンネルベースアプローチではスタジオで規定のマルチサラウンドの設置位置にスピーカーを設置し、マルチトラックをそこでミックスダウンしたものを使用する。つまり再生する会場は、スタジオと全く同じサイズ、およびスピーカー設置でなければ、制作者が意図した音響効果を発揮できない。これに対してオブジェクトベースのアプローチでは、スピーカーレイアウトという位置情報ファイルと、音像定位という効果情報ファイルが別々に存在する。スタジオで小規模なスピーカーレイアウトで制作した音源も、その音像定位の効果情報ファイルを記録し、新たな会場のスピーカーレイアウト情報ファイルと入れ替えれば、ほぼ同じような効果が期待できるのだ。これは演劇やコンサートツアーのように、行く先々で会場の形状が違ったり、さらには必ずしも同じスピーカーレイアウトでの配置が難しいような現場にはもってこいのソリューションとなる。リハスタや稽古場で演出家やアーティストとともに検討し、積み重ねた演出効果が、そのまま大規模な会場に移っても同じように再現できるのである。

SARAⅡプレミアムレンダリングエンジン

前述の位置情報ファイルと、音像定位を含む効果情報ファイルのつじつまを合わせる作業をしてくれるのがSARAⅡプレミアムレンダリングエンジンである。1秒間に40回という驚異的な処理速度で、その瞬間の音像定位の情報を、そのスピーカーレイアウトでどう出せば実現できるかということを計算し、リアルタイムに反映させていく。このため高速で音像移動させたとしても、音がジャンプするようなことはなく、非常にスムーズに実現できるのである。ここではアダプテッドWFSの技術により、複数スピーカー間のディレイやボリュームの変更がなされ、さらにはスピーカー間の干渉やドップラー効果を抑える機能も搭載されている。これにより音像移動の際に位相干渉を感じさせないスムーズな動きが実現できる。
ハードウェア自身は3Uのラックマウント。DanteもしくはMADIでの入出力となり、標準は32イン128アウト。さらにSARAⅡを複数台カスケードすればより大規模な現場にも対応できる。内部のSSDが2重化されているほか、オプションで電源ユニットが2重化。さらに機器自体もオプションで2重化できる。
DanteもしくはMADIでもらった信号を処理して出力するだけでなく、SARAⅡには内蔵のマルチトラックプレイヤーが内蔵されているというところが他社の同じようなレンダリングプロセッサーと大きく違うところだ。SARAⅡ自体が音源再生装置となって演出することも可能である。
また制御はブラウザーベースのものとなり、各種通信デバイスで実現可能。ブラウザーベースということはPC、Mac、iPad、iPhone、Androidにいたるまでウェブブラウザーがついているものであれば何でも対応可能となる。

Sound Adventuresで実現できる効果的な演出その1
音像移動

Sound Adventuresを実際に用いるとどんな演出効果が実現できるのだろうか。一つ目はその定位を活かした、音像がぐるぐる動くという演出である。音像移動はこれまでも映画や演劇で広く実現されてきた。後ろから恐竜が迫ってくるとか、側面から銃声が聞こえるとかいうものである。これまでの手法ではこの演出を実現するためには、各スピーカーの出力ボリュームやディレイをそれに合わせて少しずつ調節する必要があった。非常に時間と根気のいる作業である。一方Sound Adventuresではそれぞれの効果音は一つのオブジェクトとして定義され、動かしたい場合はグラフィカルなインターフェイスの中でただ動かせばいいだけ。各出力のバランスがどうなっているかということに頭を巡らせる必要はないのだ。
これまでこうした演出は比較的仕込み時間や稽古の期間が長い芝居の世界でのみ行われ、コンサート音響やイベント音響の業界ではほとんど行われていなかった。しかし容易にこういったアプローチができるようになった今、新しい演出が模索されている。
例えばエレクトリックなSEが会場を動き回るとか、演者が演奏しながら会場に降りてくる演出の際、その音も会場側から聞こえるとか、アイドルがワゴンに乗って会場内をめぐる演出の際、その声もワゴンの方向から聞こえるとか。

Sound Sound Adventuresで実現できる効果的な演出その2
ステージ側の定位

会場内をダイナミックに音像移動させないとしても、ステージ側だけでも十分に新しいソリューションがある。それはステージ側の楽器の定位である。これまで大規模空間のPAは多くはLR配置で行われてきたが、そのステレオイメージが享受できるのはセンター付近の観客のみだった。多くの観客は下手側なり、上手側なり、自分に近いほうのスピーカーの音ばかりが聞こえ、そのためミックスするほうもダイナミックなパンニングはできず、結果としてモノラルっぽい音作りにならざるを得なかったのである。
一方Sound Adventuresではステージ側に複数のアレイを設置することでこれを解決する。ステージ各所の楽器はきちんとその位置に定位し、センターにいるボーカリストは上手から見ていても、下手から見ていても、2階席で見ていてもちゃんとセンターに定位するのである。
これまでホールのコンサートで、特に下手スピーカーの正面に座ってしまったりすると、ボーカリストは向かって右にいるのに、その声は左から聞こえるという状況を筆者はしばしば経験している。このジレンマが完全に解決するわけである。

Sound Sound Adventuresで実現できる効果的な演出その3
トラッカーを使った自動追従

演者が移動するにつれて音を自由に動かせるツールがあったとしても、いっぺんに10人とか20人の演者が動き始めたら、それを追いかけるのは至難の業である。これを解決するのがトラッカーと呼ばれるツールである。Astro Spatial AudioはノルウェーのTTA社のStagetracker2との連携性能をこのソリューションとした。
Stagetracker2は5GHz帯の電波を使った位置情報検知システムで、ポケットに入るサイズの小さなタグ送信機と、本体、センサー、その受信装置から構成される。
赤外線のシステムと違い、電波を使っているためタグを衣装の内側に装着できるほか、日光や強い照明の下でも使用できる。
センサーと呼ばれる30㎝四方のユニット内部には60本のアンテナが入っており、タグの水平方向、垂直方向の所在が会場内の縦横高さの座標で検知できるほか、タグを装着した演者の傾き度合いまで検出できる。これをSARAⅡと連動すればタグの動きに従って自動的に音像移動をするシステムが構築できる。Stagetracker2とSARAⅡの間の通信はOSCと呼ばれるイーサネットベースの信号で行われる。

Sound Sound Adventuresで実現できる効果的な演出その4
残響支援

SARAⅡのもうひとつの機能として、アコースティックエンハンスメントが挙げられる。FIRを用いた残響特性のモデリングリバーブが活用できることになる。一般的なリバーブは2chに対し響きを加えるものであるが、Sound Adventuresではその空間のスピーカーすべてが残響を再生するスピーカーとなる。主音源がステージ側から再生される場合、客席側のスピーカーからはその反射音のみが再生されるということになる。
この技術を使用すれば、デッドなホールをクラッシックホールのような響きに変えたりすることが可能。海外では屋外で行われたオペラ公演で、まるで劇場にいるかのような響きを付加することが実際に行われている。
これまで残響支援の専用システムが市場には存在していたが、Sound Adventuresの特徴はそれとほぼ同等の効果が得られつつ、同じSARAⅡエンジンを使って積極的な3D制御にも使用できるという点だ。双方の目的の別システムを用意するよりも、システム全体がシンプルになり、コスト削減にも繋がる。

今後のイマーシブ音響の可能性

Sound Adventuresをはじめとするイマーシブ音響のツールの登場で、今後の演出空間はどのようになっていくだろうか。
現在テクノロジーの進歩で映像はプロジェクションマッピングなどを使えばどこにでも画が映せるようになってきた。照明はもともと立体的なものであり、様々に形を変化させる。
特殊効果もレーザーや電飾の一部などは客席側も表現の一部として使用している。今現在、音響セクションだけが多くの場合ステージのカミシモからのみという演出になっているのである。
一方で放送が4K/8K放送とともにマルチチャンネル化し、YouTubeでは普通にバイノーラルのビデオが氾濫、DVDやブルーレイは随分前からマルチチャンネルだ。これから育つ子供たちが劇場に足を運ぶようになるとき、きっとそれらの世代の人々は従来通りのLR拡声に違和感を持つ時代が来るだろう。我々は過渡期に生きるものとして、この進化の流れを請け入れ、どのように応用できるのかということを試行錯誤していかねばならない。
これまでと違うセットアップで他セクションとの吊り位置の取り合い、吊り重量の問題、客席側に仕込めるスピーカー位置の制限、客席上方へのスピーカー設置の是非などクリアしなければならない問題は多々あるが、それでも我々は前に進まなければならない。
設置条件を解決する一つの方法として、筆者は劇場の既設設備を利用することがメリットにつながるのではないかと考えている。Sound Adventuresとして知られるAstro Spatial Audioは実はMartin Audioのスピーカーかどうかにかかわらず制御ができる。そして多くの劇場にはプロセニアム、カラム、ウォールといった常設設備が設置されている。
プロセニアムを利用できれば、センターチャンネルを確保できる。Astro Spatial Audioはフロントは4アレイが理想としている。また最悪LCRあれば何とか意図する効果が期待できるとしている。これはフロントには大量のスピーカーアレイが必須とする他ブランドとは一線を画す考え方だ。
またウォールを使えば客席側水平方向の効果スピーカーを確保できる。既設のウォールは多くの会場で普段あまり活躍していないと認識しているが、これらを利用すれば大変魅力的な演出が実現できるのではないか。
SARAⅡエンジンは例えば既設インフラにDante回線があれば、大変簡単に導入できる。Dante回線のスイッチングハブにイーサネットケーブルを挿すだけである。あとはDanteパッチをあてるだけ。それ以外の物理的なシステムは普段と何も変更の必要がない。

Sound Adventuresとともに新しい演出空間の創出を提案していきたい。

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